ハッピーでも、大丈夫

ジュノは、16歳の高校生が妊娠する話。
 
で、
何か悲痛な話とか、まあ適当に笑わせて終わるのかとか
その割には随分好評だったらしいから人間ドラマ系?とか思っていたのだが。
 
うーん。
うーん。
 
いい話なのかもしれないが。
なんというか、「うまくいきすぎだろ!」という思いが出てきた。
「現実だったら、こんなに苦しみのない過程なんてありえない!」と。
いや、まあそれなりに痛みとかはあるんだが、話としては。
 
で、まあ、
「現実は、苦しみのない過程なんてありえない!」
って思ってるじゃん、
「いつも幸せ」であるということを、受け入れられてなかったのか
ということに気がついたのでした・・・。
 
この、映画の中で主人公のジュノはいろんな目に遭うわけだが、
重要なのは、「苦しもうとしていない」ということじゃないかと。
良く観ていると、好奇の目にさらされたり、養子縁組でもめたり色々ある。
でも、悲しんではいるが、苦しんでいないように見える。
 
人生の中で、痛みというのはどうしようもなくあることだと思う。
それは、別にすべてが悪いことではないと私は思っている。
良し悪しは、結局人間の判断の上にあるだけのものだから。
でも、それを苦しむかどうかというのは個人にかかっているのではないかと思った。
積極的に苦しむことを選択してきたのは、自分なのではないか。
「苦しんでいるのだから」助けて、とか、お手柔らかに、とか、打たないで、とか。
そういう風に、痛みを利用してきたのかもしれない。
痛みを苦しんで利用しろ、というように自分を教育してきたんだろうな。
 
他の点から見れば、「いつも幸せだったら、苦しめられる」と思っていたのだろう。
「どんな時も幸せでいたら、目をつけられて痛い目にあわされる」と。
誰だ?目を付ける奴は/笑。
あ、小学校の時の担任かぁ・・・(←フォーカシング)。
「安全でいるためには、いつも苦しんでいなくては」と思っていたのだな。
あと、「いつも苦しんでいれば、憐れんで誰かが一緒にいてくれるかもしれない」だ。
寂しかったんだなぁ。
親に傍(家)にいて欲しかったのだろう。
しかしまあ、親は実は私を過干渉から守るために家にいなかったのだと最近判明したのですが・・・。
いなくても過干渉だったけど。
てことは、居たらどんなことになっていたかと思うと、空恐ろしいな/汗。
 
まだ、なんか澱のように「苦しんでいたい」という思いはあるのだけれども。
もう、お仕舞にしよう、と思う。
苦しみがなくても、幸せでいられる。
苦しみを手放してしまうことが、幸せなんだともう、諦めてしまえばいい。
気付いたのだから、苦しみのない場所は、きっともう自分の中にあるはず。
握りしめていた手を放してしまっても、大丈夫。
いつもハッピーだって、大丈夫だ。
いつもハッピーだって、大丈夫だ。
いつもハッピーだって、大丈夫だ。
3回言ってみた/笑。
幸せに生きることは、すべてのものに赦されている権利であり、義務なんだ。
 
タイムリー(笑)↓
使命 - 天使のささやき−真実への扉
 
ところで、主人公のジュノの名前ってローマ神話のユーノー、ギリシャ神話のヘラのことなんだよね。
ヘラといえば、魂はミックスジュースって話ですな・・・。