宝地図

作ってみました。
知り合いが熱心にやっていたので、しかもなんか次々凄い実現率なのよ!
というので、そうなのか、じゃあ、と。

昨日寝る前に完成して、にやにや眺めて
「こりゃー、いくらでも見ていられるわぁ♪」などと思っていたが。
朝起きてもう一度眺めたら、ものっすごい、むなしい。
なにこのむなしさ。


うーん。
で追記。
まあ、フォーカシングですけど。
「中で失ったものは外にはない」
ですよ。
「心の平和は、心の中にしかない」ということが分かってきたというのに、
この有様は何だ!という気持ち。
それ以前に
「これが手に入ったところでで、私の望む本当のものがあるというのか」
という思い。
もう、坊主になるか、おい!
なんてね。

いや、周りの状況や金銭的条件、友人関係や人生のパートナーは幸せを感じる上で非常に大切だ。
そこが平和であるということは、もう本当にありがたいことで、
これはもう授かりのものとしか言いようがない、と最近は分かってきた。
自分が平和でいることで、相手にも平和を分けることもできるが、
それ以前、というのもやっぱりある。
まあ、単純に考えれば、平和もそうでない状況も、同じように提供できて、
一個人の威力の大きさはDVの起こっている家庭などを見ればいわずもがな。
一人が平和でいる、ということがどれほど偉大な恩恵か。
しかも自分が平和であれば、自分も外もハッピーでいられる。




本当のハッピーって何だ!
結婚だ!
安定した収入だ!
バカか!
バカは私だ!>宝地図の私。
みたいなものを見て、ぐったりしたのだった。
物質主義はおまけだろ、おまけは大事だけど。
何かを得る、ということの中に、代償のように存在する絶対的な幸せなどないのだということは、10年前くらいに社会学にはまって本を読み漁ったあたりでもう、すっかりぐったりしたというのに、という。
みんなが楽しそうにしていることがやってみたいとか、
そういうところも大事にしたいと今は思っているけど。
まあ、バーゲン会場に居ると物欲しくなっていてビックリしてしまう、うっかり買ったらやっぱり要らないものだった、というHSP*1全開な現象も自分には十分にありうることにも、よくよく留意したい。
何を言っているのか分からなくなってきた。




戦いも平和も外にはないし、世界は鏡。
何かの引き換えに何かを奪うような、取引の上にあるものに平和はない。
でも、奪いたければ奪ってもらえばいいのだ。
初めからないものは、何れ消える諸行無常の花びらのようなものだ。
それでもそこにある美しさ(ティフェレット)に焦点を合わせ続けることが出来れば、
きっといつでも大丈夫。
これって、モモ*2に出てくる、時間の花の美しさみたいなものに通じるんじゃないかな。


私は宝地図を作ってみて、自分が本当にみたいものから自分の焦点が完璧にずれているのに気がついて、気持ち悪くなったのかもしれない。
作って良かったな。
そして、作りなおさなくちゃな。

*1:最近はエンパスなどという表現もありますな

*2: