さみしいのう

自分に興味のない人と一緒に居るのはかなしいだけなんだなぁ。
で、
自分に興味がなくなってしまったんだ、と認めるのは、悲しい上に、非常に痛い。
でも、仕方ないし・・・。


未練のある自分も認めてやれば、痛みを超える手助けになるかも。




さみしさを味わうしかないという状態にある人
というのを最近いろんなところでみるのだが
結局、周りにある好意とか、愛情とか、そういうものを受け入れないことから来ていて、
それが自覚的か無自覚かはともかくとして、
もったいないなぁ、こんなに愛されてんのに、と思うけど、
それって、こっちが入れてもらえない扉の前に立っている寂しさと、
その人にまだ扉を開ける準備ができていないことから来ているんだよなぁ。
だまって、ただ扉が開くまで待っていようと決めることって、かなり勇気がいる。
開くとは限らないんだし、
待っている自分に開かなかった扉が、
突然来た違う人に開いたりもするし。


大体、待ちくたびれたりして、いつの間にか居なくなっているもんだ。
立ち去るしかないほど、痛みが大きくなったら立ち去ったらいいのだし、
痛みを感じる前に立ち去ってもいいのだし、
そういう自分や相手も受け入れたい。
扉を開けないということも受け入れたい。
扉が開くことを、遠巻きに待ってくれている人がいたら、感謝して、
自分にその準備ができるまでそっと扉を閉めて置く勇気も持っていたい。


どこかに完璧な人がいて、いつか自分をすべて満たしてくれるのだ、などというのはとんだ幻想だ。
そういうことは奇跡的に一瞬あるかもしれないけど、
それが本当だと思うと、その奇跡的な瞬間に感謝することができなくなってしまうし、
いつか、その思い込みのせいで、その時間を共有できた人を責めてしまうことになるかもしれない。
どんなに奇跡的なことがあっても、何度かあると人は慣れるものだ。
感謝するってのは、難しい時もあるもんだ。
感謝できることがあったら、それだけでもありがたいのかも。
でも、いいことはあって普通だ、ぐらいに思っておきたい。
逆もしかり。


なんてことを、「グーグーだって猫である*1」を観た後に思った。