「わたし」とは何なのか

他の記事を書こうとしていたのだけど、
中身がもやもやして、
頭が、心臓が瓦解しそう。


クローンは故郷をめざす 通常版 [DVD]

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昨日これを見た。
ネタばれ、してもたぶん
実際に観ないと、この映画が伝えたかったことは
わからないかもしれない。




自分っていうものは何なのか、というのを私はしばしばおもう。
この映画の中で、クローン再生された主人公が目覚めたとき

僕は死んだのか

と言うシーンがある。
この時目覚めた本人の頭の中の記憶というのは、

クローン再生のための準備をした
→クローン再生の研究所で目覚めた
→「そんなわけですけど」と言われる
→僕って、クローンか・・・

という流れ。
この主人公は、幼いころに双子の弟を自分のせいで亡くし、
その時に出来た傷が左手の甲に大きく残っている。
その傷はクローンにはないのだが、最後のシーンで現れる。
みようによっては、ここで彼の、
「オリジナル(亡くなったクローン元)としての人生が始まった」
と取ることもできるのかもしれない。
解釈は色々ある。



私は、自分が本当に「自分」なのか、ということを確信を持って言うことができない。
本当に私が「わたし」なのかわからない、ということは前から思っている。
記憶と体を引き継いだら、本当に「わたし」なのだろうか。
毎日、自分を引き継いで生きているわけだけれど、
この私と、以前に存在した「わたし」は同じものなのだろうか。
いや、肉体は代謝され、記憶は更新しているから厳密には同じではない。


この映画の中で、クローンとして目覚めた主人公が
「それでも、僕は生き続けなくちゃならないんだ」
というところがある。
これは、自分の母親に「弟の分も長生きしなくちゃね」と言われたことに由来するのだろう。
クローン再生で生き返った主人公は、「自分が死んでいる間」に母が亡くなったと聞くと
動揺したような表情を見せる。
このクローンは実は二人目で、一人目は記憶がうまく処理できず、
しかも行方不明になって、まあ色々あって
二人目が探し出せた時には亡くなっていた。
またしても、自分を亡くしたわけだが、
自分が死んだことで、弟に対する弔いが終わった
それによって、二人目のクローンは「オリジナルとして生き返った」のではないかと。
だから、傷が戻ってきたのではないのかなぁ、などと感じた。

ちょっとフォーカシング

もやもやしてしょうがないので
フォーカシングをした。


私から、ガラス繊維のようなものが伸びてゆく。
その先に友人がいる。
家族、親族、一度しか会ったことのない人もいる。
その繊維は、物凄くたくさんあって、
蜘蛛の糸のように細かったり、直径5cm以上と太かったりばらばらであるけれども、
その先に誰かがいて、私と繋がっている。
青白かったり、黄色かったりする電気のようなものが走っている。
私の先にいる人たちは、またそれぞれに誰かとその繊維のようなもので繋がっている。


それを見て、
自分が、誰かとのつながりの中で生きているのだなと思う。


しかし、手を一振りすれば、ガラスの棒が折れるような音がして
繋がりは切れていく。
パキパキという音がして、
繊維を通して伝わっていた光は行く先がなくなり、
光ファイバーの先端のようにして、その折れたところで
チカチカ点滅していた。
こんなにも簡単に、切れるものなのだ、と思った。
そして私が生きていて、起こっていることは、
この小さな光の交換なのだと。
折れた先を見ていたら
相手の方から、小さなガラスの根のように
折れ目がきれいに修正されて、私の方へ伸びてくる。
手の甲を差し出してみると、少しゆっくり皮膚を触るようにして
ゆっくりと、中に刺さっていった。
そして、また小さな光が一粒、流れ込んでくる。
私は、誰なのだろう、という疑問が胸に浮かぶ。
その疑問が浮かんだ時、光がいくつか私から流れていくのが見えた。