もどれない

わたしを離さないで

わたしを離さないで

孤独についてを読むと、「運命愛」という言葉が出てくる。
どうしようもない人生を受け入れてしまう、
これは自分で選んだのだということに、無理やりする。
そのような人生になるように自分はしたのだと。
そうすると変わる、というようなことだったか。



わたしを離さないでを読んだとき、そのことがちらついた。
完全にネタばれるので、気を付けて(笑)。




主人公たちはクローン人間で、臓器提供のために作られ、
臓器を提供する仲間を世話する介護人の仕事をしながら提供をするまでの期間を過ごし、
臓器提供という「使命」を終える人生が決まっている。
さらに、その後も身体は廃棄されずに実験室行きになるようである。
恐ろしい話に見える。
けれど、
突き詰めて考えれば、
彼らと私と、何が違うのだろうか。
「知らされている」のと、「知らされていない」ことの違いだけ。
私は臓器提供については何とも言えないが
そして私は臓器提供意思カードの登録をしているが
環境によって私が「提供する」意志になるように教育され
偶然を装って故意に臓器提供せざるを得ない「事故」に遭わせ
(実際は事故でなくても、「どうしようもない」ように見せかけさえすればよい)
「提供する」ことになったら?
それは本当に「そのために生まれてきたわけではない」のだろうか。
別に、これは臓器提供だけについてのことではない。
人生に起こることは、ほんとうに、自分の意志なのか?


池谷裕二単純な脳、複雑な「私」

 自分が自由であると認識すれば、自由である 

ということを脳の仕組みをもって説明している。
思いつく、思いがわき起こるところまではオートマティックに起こってしまうらしい。
人間にできる意志の力の働きは「思ったけれど、【しない】というところにある」というような内容について話していた(はず。本が手元にないので大体こんな感じ)。
そして、「そうだと本人が認識すれば、そうである」とも。
自由であると思いたければ、自由であると思っていればよい。
すべてのことが、そうであるのかもしれない。


人生は変えられない、それならば、それを生きると「自分で」決めるしかないのかもしれない。



補足と覚書:これ読んでしばらくしたとき、ふと胸の内に「自分で死んだらいけないのかもしれない」って想いがすっと入ってきたんだよなー。実感として。