モラルの砦

料理教室辞めました。
何で通うことにしたのか思い出したのだけども。
誰も知り合いがいない場所に引っ越してきて、
誰とも喋らないで
おかしくなりそうだ!!
と思ったから始めたんだった。
誰でもいいからたまには喋りたかったのだろう。
そして、完全に要求そのまま、何の過不足もなく満たされた。
毎回、誰でもない人と話し、料理もいくらか技術を手に入れた。
今思うと、私もきっと、誰でもない一人であっただろう。
そういったことを考えると、今は、以前よりもっといい環境にいるのだな、私。
そして、大事な人と一緒にいることを選ぶ自由を自分に許したのだと思う。
これからは、心から慈しみ合うことができ、尊敬しあえる人々と共にいたい。





私がリトマス試験紙のように信頼している人がいる。
前のバイト先の店長なのだが。
初め会ったばかりのときから毎度、
本当にまともな人って世の中にいるんだなー
とひたすら感心する。
良心の具現化というか。
勝手に、私の中で「一般という基準」の指標にさせてもらっている。
本当は、一般という以上に良心のある方だけど、「世間」とか「普通」というものが美しい形で表現されたときの、良心、という意味では近いのではないだろうか。
その人の一番凄いなと思うところは、自分が弱いことをよく知っていること。
どんな人も弱さを持っていることを、よく分かっていること。


モラル、というものを、一時期それを押しつけられたりしたことで、物凄く嫌な思いをし、条件反射のように拒否していた時期があった。
最近分かってきたことだが、「相手を苦しめる人は自分が苦しんでいる人」で、「私は正しいのに!(もしくは「悪くないのに!」)」と言っている人が、完全で潔白であることはまずないということ(というか、完全に潔白な人というのはいないだろう)。
重要なポイントとして、自分にそういう傾向があることも認められるようになった。
そして、大体がそういった行動の根底には、恐怖と不安がある。
自分の中で自覚していない不安や恐怖が鏡のように映し出されて、そこから行動してしまう。
そうすると、誰かを傷つけてしまう。
その傷が、また自分に返ってきたりする。
痛みが強くなる。


痛むこと自体に良し悪しはない。
ただ気付かれる為にあるだけだから。
でも、良心を源に抱いたモラルがあったら、心は痛みでいっぱいのままでも、恐怖や不安でいっぱいのままでも、誰も傷つけずに済むことがあるのだ、と分かった。
それは、先人に渡された優しさの形なのかもしれない。
「あの子が、怪我をしませんように」という祈り。
振り回さずに、そっと自分で使うためにあるのだろう。
モラルは、押し付けられているときはモラルとして機能していないかもしれないけれど、それでも使うことに意味がある時もある。
これを書いていて、 土屋賢二
「心ある善行も心ない善行もおなじ、受け取る人にとっては同じなのだから」
というようなことをStringという雑誌で言っていたのを思い出した。
「善意のある人の何もしなかったという行動も、悪意ある無視もおなじ。だったら、心ない善行でいいからした方がいいに決まってる」
心ない時も、行動する勇気を持ちたい。



どうしようもない不安の中にある時、
それをどうにかしようとしないこと、というのを読んだ。
どうしよう、どうしよう、と頭の中がいっぱいの時に「本当に何もしない」のはどんなに勇気のあることだろうか。
今に立ち止まる勇気を持つ。
どうにかしなくてはという焦りというのはまた、どうしようもないことを引き起こす。
自ら剣山を踏むようなことをしてしまったりもする。
自らを見る、そうして見ることができるものは自分ではない、と気付くまで見る。
見ているのが自分なら、見ることができるものは自分ではないからだ。




昨日自分で作った料理が美味しすぎて自分で感動し、おかわりもして写真も撮った。
材料は、パスタ、ブロッコリ、じゃがいも、オリーブオイル、にんにく、アンチョビ、たまご。
あー、適当に作ったのに私ったら、天才!!と思った。
幸せでございます。