死を待つ

斜め前の席の後輩が、もりもりパンを食べているのを見たら、泣きそうになった。
人は、入れて、出して、ができなくなると死んでしまうのだよ!
生きているそのものを見たら、ぐいと生に引き寄せられたような感覚になり、
涙が出そうになったのだった。


叔父が、癌の終末期に入ったと聞いた。
もう、口から食べ物を取ることができず、食べられないことで体が入れたものを出さないようにするのか、排出機能が衰えて、大変らしい。
今、葬式に誰を呼ぶか、などのリストを作っているそうだ。
見舞いに行った両親から電話で話を聞いたが、ひとつひとつ、叔父が死に向けて準備をしていることが分かった。
叔父自身、死の受容の段階に入っているのかもしれない。
ゆっくり死んでゆくというのは、周りに対する最後の贈り物だ、というような話を母がしていた。
確かにそうだろうと思う。
しかし、痛いものは痛い。




叔父の話を聞いて、頭の中に水がたまっているかのような重みを感じる。
出ることができない涙なのかもしれない。
中指が、物凄い爛れた。
フォーカシングすると
「また、私を置いて去って行く」「何でいなくなってしまうんだ」
と言って怒っている。
初めは宥めようとしたが、思いなおし、その感じとしばらく一緒にいる。
無力さや、罪悪感、悲しみ、痛み。
結局、私はまだ覚悟するのが怖いのだろう。
受け入れるのが怖いと思っているのだと思う。
なんで置いていかれると思っているかは、子供の時の記憶のせいだが、そろそろ、それだけではないということも、心の中に置いておいた方がいいような気もする。
多くの人は、多くの人を置いて亡くなるが、平均寿命の半分以上の年齢になれば誰しも、誰かに先立たれた経験があるものだろうと思う。
自分だけが特別だと思うことに逃げ込むのは、幼さから出てゆけない、その準備がまだできていないということなのかもしれない。
そういう時に、無理やりそこから引きずり出すということも、出来ればやってもいいかもしれないが、あえて強いる必要もないような気がしている。


今日は広島に原爆が投下された日。
最後の戦争を思い出す。
みな、死を待つ人であるのなら、その人生にひとかけらでも多くの喜びがあるようにと祈る。