それを知っている、ということ

 モモはまるで、計り知れないほどの宝の詰まったほら穴に閉じ込められているような気がしました。しかもその財宝はどんどんふえつづけ、いまにも息ができなくなりそうなのです。出口はありません!誰も助けに入ってくることはできず、じぶんが中にいることを外に知らせるすべもありません。それほどふかく、モモは時間の山にうずもれてしまったのです。
 ときには、あの音楽を聞かず、あの色を見なければなよかったと思うことさえありました。それでも、もしこの記憶を消しさってしまおうと言われたとしたら、どんな代償をもらおうと、やはりいやだとこたえたことでしょう。たとえその記憶の重みにおしひしがれて、死ななければならないとしてもです。なぜなら、いまモモが身をもって知ったこと――それは、もしほかの人びととわかちあえるのでなければ、それを持っているがために破滅してしまうような、そういう富があるということだったからです。――
 
モモ (岩波少年文庫(127)) 16章ゆたかさのなかの苦しみ より

 
久々にモモを読んだ。
モモが時間の花を見た後の思いを書いているのが上記。
これ、そういう宝が本当に、確かにあるよ!
と思いながら読みなおした。
 
いまここ塾 in 博多
に日曜日行ってきた。
うーん、やっぱり、もうおんなじ体験している人を探さなくて良い!ということが第一の得たことだなぁ。
あと、大事なのは私の場合、気付きをいつもおぼえていること、それを知っていることを自覚し続けること、じゃないかなと思った。
 
また追記します。