守る力

帰り道から、家に着いてゴロゴロしながら、昔のことを考えていた。
昔と言っても、小学校ぐらいのこと。
 
小学校の時、どうしようもないあだ名をメガネを着けていたことからつけられて、しょうもない男子たちに呼ばれていた。
私は、それは放っておいた(堪えていた)。
「泣いて勝つな」とか、男の子だったらよかった、みたいなことを言われて育ったせいかもしれない。
小学校三年生で、団地が増設されたことに伴い、どさっと転校生が入学してきた。
その中に、メガネをかけた女の子がいた。
その当時、メガネをかけた子どもというのは珍しい方だった。
その女の子は、転入一日目に私と同じあだ名で呼ばれ、瞬間的に泣いた。
私は、びっくりした。
「こんなことで泣くのか!」
 
今思えば、何があっても泣かないように、感じないように、精神を鈍らせていたのではないかと思う。
今が泣きそうだが/笑。
 
 
その時、一番欲しかったものは何だろう、と思った。
私はたぶん、今はそれを手にしつつある。
自分には、自分の人生を生きる力、活かす力があるのだという、信頼感。
一歩ずつ進む道、すべてが、すべてにつながっているという信頼感。
ただ一歩ずつ進む、このステップを、大事に進むだけでいいのだという安心感。
 
どんなことがあったら、私はそれを得ることができていただろう。
おそらく、励ましや、存在の認知、自分には生きる力があり、生きることを求められているのだという確信。
自分自身のちからで、 それを得ることができるというのは大事だが、なにより、周りの力が大きいというのを今の私は知っていて、一人になったときに、そうしたちいさな励ましの積み重ねが自分の内側に反響して聞こえてくる、これが何よりも、自分を生きる力を湧き立たせる力、生きることに挫けそうにになったとき、自分を守る力になっていると思う。
 
そんなことを思っていた時、ああ、私にも、人を守る力があるのだ、と気がついた。
小さくとも、愛情のこもった言葉がどんなに自分の心を守ってきたか、と思う。
ならば、どんなに小さくても、愛情をこめた言葉を人に配ることが、その人を守るのだ。
別に、言葉だけではなく、しぐさであったり、対応の仕方であったり。
 
何かの盾があるだけでは、それが壊れたら傷つくしかないが、
どんなに傷ついても、決して本質が穢れたり、壊れたりすることはない、
何かを失うことなどない、自分は愛されて、必要とされているのだ
という信念が、どれだけその人を守るだろう。
 
 
支え合うということはこういうことか、とやっと気がついた。
人は、人の枷ではないのだ。