怒りはどこにあるか

自分の中ですよ。
 
ていうか、この手の質問は、いつも答えは同じだな・・・。
 
正しさのワナ
という文章を読んだ(↑クリックでリンク先へ)。
なんというか、リンク先は文字が物凄い読みにくい背景なんですが(笑)、是非とも読んで頂きたい。
よい文章なのでお勧めです。
自分の備忘録のためにも、リンクを張っておきます。
 
最近、本当にバカみたいに怒っていた。
隣室が工事だなんだとうるさかったせいなのだが、うるさい上に心ないところにさらに怒ったりしていたのだが、そのおかげで、本当に色々気が付きましたよ。
気付くのは、いつも自分の未熟さと、自らの力、自分への愛情の量だなと思う。
うるさくてうるさくて、辟易していたとき、後になれば「きっと、いいこと」と分かる、と友人に言われて、確かに、よいことだった。
そういうことしかないと最近は心でも、少しずつ理解できるようになってきた。
 
私はもう、先週末ぐらいにには怒りを抱えること自体にすっかり疲れてしまっており、「クレイマーになりたくないのに」と言いながら、でも相手に対して「こうあれ」という姿を思っていた。
たまたま電話をかけてきた母親に愚痴を言うと、「相手にも事情がある」と至極当然のことを言われ、そういわれたものの相手の背景にある物語は受け入れられない自分に、それにもまたぐったりしたりしていた。
 

何かに怒っている人は、キッカケは何でもいい。怒りをある人に向けることが目的だから。不思議なのは怒っている人は、自分が正しいことを言っているという正義の側に立つので、自分が何に怒っているのかという、自分自身の感情には目を向けない。ただ、私は正しい、相手が間違っているという気持ちが感情全体を支配する。

 
上記は、正しさのワナ、の中にある部分。
結局、そうだ、私は何か違う怒りを持っていただけで、うるさくしていた相手は、ただトリガーに過ぎなかったのだ、と気がついた。
本当に分かった。
そうしたら、相手への怒りはなくなった。
そして、怒りを抱えている自分を分かってほしい自分がいる。
その怒りが何なのかと言えば、過去なのだが、私にはまだ過去にできておらず、現在なのだと私に分からせたい自分がいる、ということが分かった。
私は、自分自身に自分の話を聞いてほしくて、他人に当たり散らしていたのだなぁ。
いや、まあ、騒音は騒音だったので、その騒音から自分を守る行動を起こす、その力があることを自分に伝えることは非常に大事なことだったのですけれども。
 
いつも、ひとつのことに一つだけの意味があるわけではない。
正しい正しくない、の二元性の中だけに生きることは、もう終わりなのだというサインなのではないか。
 
どんなに過去が愚かであったとしたって、それは、私自身の価値とは全く関係がない。
というか、価値など、ないのだ、初めから。
そのようなカテゴリーに属するものは何もなく、ただ、人の遊びのルールでしかない。
そこをすぐ忘れてしまう。
 
忘れる、ということは、知っている、ということでもあるなあ。今思った。
 
過去を過去に出来なくて、足枷を引きずりながら悲鳴を上げて生きてきたのかもしれない。
それももう、終わりだ。
気づいたら、そこで、終わりだ。
 
今を生きる、瞬間で選択している、それに気づいている。
そうあろう。