ダイエット

ダイエットは、しないようにしている。
それは私にとって一つのトリガーだから。
「平静を失う」というトリガー。
 
正直、痩せるのが怖い。
太るのが怖い。
体の大きさについて、話題にされるのが怖い。
この裏に、もっと違う恐怖がいるのは、大体分かっているけれど、これだという確定した1つがあるわけでもない。
最近は、健康診断以外では体重計に乗らないようにしているし、食事のカロリーも可能な限り計算しないようにしている。
 
一時期、物凄い緻密に摂取カロリーを計算し続けたことがあり、本当に知りたいと思えば、料理の量などを見れば、実は大体の計算が見るだけでできる。
一日の基礎代謝、必要な運動量、必要な栄養素。
今考えると、自分がこんなにもストイックになれるのかと驚くほどだ。
そして、今思い返してみれば、このストイックさはダイエットに熱中することで見ないことにしている恐怖を、感じないようにするためのフィルターだったのだということが分かる。
しかし、このストイックさというのは恐怖に裏打ちされていたものである上に、やればやるほど恐怖が増すという悪循環の上に立った砂の城であったから、当然崩壊を迎えた。
そうして、摂食障害に関する本を読み、それ自体に対する課題がだんだん解消されてきたところで、もっと根本的な崩壊を迎えることになり、カウンセリングに通いながら人生を見つめなおす現在の日々に変わっていった。
 
現在は、カウンセリングには通っていない。
まあ、嵐のような日々は終わったらしい。
カウンセラーの先生にも、卒業のお墨付きを頂いた。
 
とはいえ、まだまだダイエットというのは私にとっては恐ろしいトリガーで、皮肉なことに自分でそのトリガーをひいたりしてしまう。
まだ、そこに常に指をかけている状態なのだろう。
そして、私の執着がまだまだ強いということだろう。
先日の健康診断で、体重がほとんど変わっていないことに安堵したが、一方で少し減っていた(誤差の範囲だが)ことで、不安になったらしく、食事サイクルがしばらくおかしくなった。
加えて、昨日、久々に会った知り合いに「痩せたんじゃないの」と言われて、夜中に袋菓子2袋食べた。
不安を解消しようとしての変則行動と思うのが、こういう時は一番良い。
心だけで対応できないときに、体が対応してくれるのだ。
「〜ではならない」というのが、こういう障害を抱える人の根本にある怖れではないだろうか。
ここが消えてしまえば、問題などなくなるのだろう。
 
以前は、なぜこうして、また暴食したりしてしまうのか分からず、さらに混乱していたものだが、こういったことは自己防衛のためのことであると今は知っている。
私のある部分が、私を守るための行動をしているのだと知れば、自分は意識を超えた機能の部分でも、自分に愛されているのだと知ることができる。
そこまで、自分の中に降りて行けたら、変則行動も治まったりする。
まあ、治まらなくてもいいのだ、本当は。
愛があるんだなぁ、と気づくことさえできれば。
 
痩せることを恐れているのに、痩せたいという思いから逃れられないのは、そこに自己価値を重ねてしまっているからだろう。
そんな束縛の中で生きなくたって、自分には価値があると思える日が来れば、課題ごと、放りだしてしまうことができるようになる。
そして、その日は、ちゃんと来るだろう。
私は、日々をこなしながら、その日を待つことにしたのだから。
 
本当に心が平和である日が時々訪れているのは、きっとその日がくることのサインだと思っている。
心が平和であること以上に、大事なことなどあるだろうか。
私は、平和を選択しよう。
そのように、生きよう。