ごきげんです

ふぉふぉふぉ、今日はごきげんです。
今日は友人の誕生日で、朝からお祝いメールをして、にやにやして、
更にお世話になっているカウンセラーの方の結婚のお祝いの品を持って行って無理やり祝って、にやにやして、
自分の誕生日より浮かれております。
凄い幸せです。
祝う幸せです。
祝って喜ばれて、幸せです。
にやにや。
 
昨日は昨日で、後輩を本格的に航海に送り出すことになり、彼らが本気になってきて、準備のやり方とか心構えを伝えたりして、こうして海の面白さをやっと伝えられるんだなぁ、と思うと嬉しかったです。
にやにや。
 
この前の日曜日には韓国人の友人が結婚して、(いろいろな側面でw)物凄い写真のスライドを動画で送ってきて、面白いやらめでたいやらです。
めでたいなぁ。
なんだこのめでたさはー。
 
 
最近、親と、「親がセットで亡くなった場合の対処法」の話を電話でした。
なんだ、祝い事によって人生が変わる、という人が周りに増えてきており、何か分岐点というサインが色々あったりとかして、
この前買った黒唐津のうつわを眺めまわして美しいなぁ、と思っていた時に、
「ああ、こうして選択する自由というのを、手に入れたんだな」
と思ったら、ああ、これが、子供時代の終わりということだな、と思った。
全てを選択する権利と、その力を行使する意識が自分に属しているのだということが、よくよく、分かったというか。
その権利が当然のことなのだ、と理解できたことが、私に何かひとつ、進ませたのだと思う。
 
で、ああ、これからは折り返しの人生だな、と思ったのでした。
過去は過去で、ここで終わりなんだわーって。
過去を過去にするのは自分の力なんだなと。そんなことを思っていた時にヘアスプレー(映画)を見たら、そんなことを言っていたとかもあり。
以前は、独りで生きるのだ!ということは、何か被害者意識みたいなこととか、ヒロイン酔い(恥ずかしいなこれ)みたいなものとあいまって、物凄い視野の狭い世界でしか考えなかったけれども。
今は、一人を生きる力を持っている、ということについて思う。
自分という一人が、本当は一人じゃないことが分かってきたというか。
前は、自分が死んだあとの世界は全然興味がない、というか、あってせいぜい、死んだあと残った人は自分をどう評価するか、ということぐらいにしか目がいかなくて。
まあ、他人が見えていなかったわけだが。
連続した生命としての両親、というのも見えてきたし、そういうことから自分が今すぐ死んだとしたら、どういう影響か出るのか(たとえば、端的に死体発見時とか、私がやってる共同研究が、とか、親はとか親戚は、友人はとか)について、現実として感じられるような感じになってきた感じがあり。
なんか、地に足がついていない感じがあったのが、アンカーを持っていることに気がついた、みたいな感じだろうか。
そして、そのアンカーをどこにでも下ろせる、と気がついたというか。
つまり、今ここに、アンカーを下ろして生きて、それでいいと。
人間として生きることにやっと現実味を感じるようになったんだよなぁ。
それぞれの人にある、それぞれの物語の重さが感じられるようになったというか。
前は、テレビ見てるような感じに近かったかもしれない。
あれ?これってメガネの影響もあるのだろうか。
 
で、まあ、親も死ぬなと。いずれ。
うちは、兄弟もいないし、うっかりすると本当に天涯孤独みたいなことになるぞと。
まあ、友人とか親戚は、ありがたいことに沢山いるのできっと本当に困ったことには全くならないと思っているのですが。
まあ、もしものときは、私が色々するわけで。
と思って両親に連絡してみたら、
実は、殆どの場合に対する対処方法はもう決まっていた
みたいなことが判明しましたw。
いや、葬儀場がどうとかはまだだけど。
墓を買おうとして、あまりに雰囲気が悪くて(何か悪いものがいそうな寺だった)私が拒否したりした過去があったな、などということを思い出したりもしたなぁ。
 
というわけで、一人を生きるという準備をしているが、
実は、独りにはなれないということが本当に分かってきた、という現在です。
 
とにかくおめでとう!おめでとう!
おめでとうと言わせてくれる相手がいる私、おめでとう!!/笑。
みんな一人残らず、幸せでいたらいいと思うよ。
今日は天気も良くて、よい日です。