抑うつ

どうも、抑うつっぽい。
体の周期というのもありそうだけれど、
「あれをしなくては」ということに手が出せない。

今の私は、誰かに話を聞いてほしい。
行くべきところに行かなくてはという思いがあるのだが、
そこがどこだかわからない。

proof(原題)という映画を見た。
天才が出てくる。
精神的(脳機能障害かも?)に不安定なものを抱えている家系で
父親は数学の天才であったが精神を病み、そののちに亡くなる。
娘は父親と同等か、それ以上の能力があるが
色々あって抑圧し、自分の能力を恐れている。

他の人のレビューを読んでいて、
「主人公がめちゃくちゃなのに、もうその研究ノート燃やしたる!ってならないハロルド(ボーイフレンド)寛大だわー」
というのがあったが、いや、燃やせないわと私は思う。
研究をかじっている身としては・・・。
その結果を導き出せるのは、人類では最初で最後かもしれないのだし、
そのひとつの研究結果の価値を考えたら、ねえ。
苦しい思いを(自我とか)抑え込んででも、世に出さなくては(少なくとも、このまま消えないようにしなくては)と思うだろう。
その思いがなかったら、研究者じゃねー
と私は思うのであった。

あと、ハロルドが、表立った業績の全くない主人公が研究ノートの結果を導き出したというのをすぐに信じられない、というのは普通の反応であろうと思いますわ。
あそこで主人公が検証できないところが、学会(社会)とかに出ずに居た証明でもあるなーと。


「26歳では、もう遅すぎる」
という話が出てくる。
研究の世界では、とくにアイデア勝負の分野では30歳までがピークと言われている。

ふっと、恐ろしくなった。
私には、まだ「特別な何か」があると思いたがっていると気づいたから。
そして、それがあるか無いかは、わからない。
でも、その「わからない」ということが、私を苦しめる。
自分を殺してしまった気分になる。

でも、世界は、宇宙は、プログラムとその初期設定通りにしか動かないと、私は知っている。
この感情の発現も、電気信号であって、プログラム通りなのだ。
悲しみも喜びも、「私」のものではないし、「私」はない。
その一方で、どんなこともひとつの「私」である。

悲しいと感じるのはなぜなのだろう、
と思っている「私」とはなんだろう、
というときの、「私」とは何だろう。


100円で旧作を貸してくれるTUTAYAを見つけて、週末は映画祭りにしてしまいました。

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ジョージ6世が、スピーチカウンセラーに過去を語るときの悲しみは、自分のカウンセリングを見ているかのようであった・・・。
私のとは内容が違いますが。
でも、内面が変われば外に現れるものが変わる、というのはあるよなと。
そういうことは、すっかり忘れていた。
あと、判っているということの大切さをみた。
スピーチカウンセラーとその奥さんよかったな。
これ見たら、自分の家族がほしくなった。
いや、前から欲しかったことをを思い出した。

この話は国王の吃音症を治す話なのだが、
私自身は、人前で話すことは別に何ともない。
何ともなくなった、ということの方が正しいけど。
声が震えるときもあるが、震えたまま喋る。
人前で話すことは、繰り返しているうちに慣れた。
それよりも、精神的に圧力をかけてくる人と話すときに、恐怖で頭が白くなる。吃る。
なので、全くの他人を前に好きなことをしゃべる方が、楽。
人前で話すことが怖い人というのは、きっと「周りのすべての聴衆」が怖いということもあるのではないだろうか。
幸い、そこまでの恐怖を私は多くの聴衆の前ではしたことがない。


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恋も仕事も大成功!それだけが人生の成功!みたいな映画。
でも、過去の苦しみに引きずられてしまうというのはよくわかってしまい苦しい。
そこの葛藤は、さらっと書いてあるが。

あと、最近Renta!が私の時間を吸い取るので、もうあのサイト開くのやめようかと・・・(広告がめっちゃ出ていて誘惑が恐ろしいけど)。