自己肯定感、自己否定感

もう一度読んでいろいろ感じたいので、コピペ。

なんども、ここで「自己肯定感」ということについて、
 言ってきている。
 気になってしょうがないことばなのだ。

 ちょっと耳にしたり目にしたりすると、
 「じぶんのことばかり、いいと思ってる」そういう感じ?
 なんて思えるかもしれない。
 うん。そういうことでもあるのかな。そうかもしれない。
 でも、それだけで言い切れないとわかるのは、
 逆のイメージを想像してみたときだ。
 
 逆は、「自己否定感」あるいは「自己肯定感がない」。
 これについて、「謙虚でいいじゃないか」と思うかな?
 もうちょっと想像してみたら、どうだろう。
 「じぶんは肯定されてない」と感じながら生きてること。
 そんなふうな意味になると思う。
 これは、とてもきついことだろう。
 「いないほうがいいのかもしれない」という思いと共に、
 日々を過ごすということは、人のいのちを削っていく。
 人どころか、犬やら猫やらだって同じだ。
 「いないほうがいい」と思われながら、
 飼われていたり、捨てられたりしているものもいる。
  
 「じぶんはいてもいい(に決まってる)」と、
 思って生きていられることと、
 そう思えずに生きていることとの間には、
 とんでもなく大きなちがいがあると、ぼくは思う。
 ほめられたりかわいがられたりしながら育つ子どもと、
 貶されたり馬鹿にされたりしながら育つ子どもとでは、
 たぶん「自己肯定感」に、ちがいができるだろう。
 おそらく、おとなになってからでも、そういうことだ。
 
 「自己肯定感」ということばを、
 意識しながらいろんなことを考えている。
 それを失っていそうな人を見たとき、
 それを感じられないじぶんを発見したとき、
 他人のそれが否定されている場面に出合ったとき、
 これはいけない、と気づくようにしている。

 自己肯定感って、「わがまま」のことじゃないよ。
 昼寝している犬の寝顔みたいなものだと思うんだ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ぼくは、朝から夜まで、福島のあちこちにおじゃまします。
ほぼ日刊イトイ新聞 - 目次

自己肯定感は人間として生きる上での偉大な快楽だ、と気づいた。
だからこそ、部分的にでも自分を肯定する人から離れるのは難しいし
(たとえそれが、肯定する以上に自分を否定する人であっても)、
自分を肯定する人を無意識に受け入れてしまうのだろう。


今の自分を思い、言葉が身にしみる。