天意を信じる、エネルギー保存則

昨日、久し振りに家でヨガをして
やりながら、
「ああ、自分は精神が弱いな」
と気がついたのでした。
「自分がなまけものであると気付いたら、それとうまく付き合えるように工夫する」
というような内容の文章を読み
そうだよなー、なれないものになろうとするよりも
既にそうである自分と上手く付き合わないと
と思うのでした。
何が恐いって、自分に嫌われることだよ。
そうなるともう、生きているのが嫌になってしまうから。
自分に好かれていれば、生きていける。
弱いなら、弱さをそのままに持っていても
生きていくことのできるように、工夫をしよう。



重耳(上) (講談社文庫)

重耳(上) (講談社文庫)

苦難の中国春秋時代の公子重耳の話。
重耳っていうのは人の名前です。
変な名前だなー。


運命に流され流されて、
彼の素直さと誠実さが人生を支え
19年の放浪生活をした末に62歳で晋の君主となるという。
彼の人生のあり方はとにかく受け身で、
天意があって君主となったという感じ。
本人の望むところを外れていく人生。
「晋の君主となる」という天意があったので
もうどうしようもなくそうなっていくしかなかったともいえる。


あと、人は人によって人になるのだなと思った。
師は非常に重要で、その人を簡単につくりかえてしまう。
結局、君主も何も、本人だけではなく周りの人間でできているのだろう。
まあ、重耳程の器があったからこそ最後には君主になった
ていう言い方もあるのかもしれないが。


人は誰だって、他になりようがない人生だったのではないかと思う。
自分でコントロールしてきたといえるところのない人生だ
という気が私にはしている。
望みとは違うところに押し流されているような。
その望みさえも、自分が本当に望んでいるものなのだろうか。


私は、意志というのは妄想の霧のようなものだと思っている。
突き詰めれば電気信号でしかなく、
その組み合わせで現れたもの。
何もかもが周りの環境によって作り上げられ
そのようにするしかないように、生きてきた。
苦しみも喜びも、自分の手によるものと言えないと感じる。


最近、エネルギー保存や質量保存について思う。
この世界というのは大きな閉じた箱のようなもので、
その中にあるモノの量はあらかじめ決まっていて変えられない。
わずかな一瞬の静電気でさえも、その箱の中のバランスを保って存在し、
私が存在しなければ、あらゆる意味で私と全く同じだけの何かがここになくてはならない。
私がしなければならないことを誰かがしなければならない。
過不足などない世界にいるのだ。
平和であろうと思う。
熱狂も落胆も、温度でいえば高温と低温のようなもので、
どちらもいずれ、どちらでもないものになってゆくしかない。
平衡であるようになっているのなら
平衡であるように。


世界はただ、平衡になろうとしてりいるだけのことが起こっている。
高校の時、化学の授業を受けながら思ったことは間違いなかったと思う。
その平衡になろうとする動きが、天意なのではないか。
ただ起こることが起こるだけで、
ただ受け入れていく覚悟だけが、心を平静にするのではないか。