フジファブリックと (3)

死の受容

まあ、いろいろあるんですよ。
昨日か一昨日だかに、フジファブリックを聞くと具合が悪くなる発作に見舞われたりして。
その理由は、フジファブリックのレビューをしている人の記事を読み、
ああ、詩のせいだと判明して、今、意識的にちょっとお休み。


26日がカウンセリングの日だったので、
カウンセラーの先生に色々話してそれでいったん踏み台ができたのか、
そこからまたジャンプアップしたように何かが起こって
まあ、ガンガン変わっているわけですよ。


最新アルバム(クロニクル)買って、付いてきたDVD見て、
そうしたら、
「おお、私って今過渡期で、しかも超えられるし、何か進めなかったのって一つの妄想か」
「私って、可能性があるんだ!他のすべての人と同じように」
とかそういう気付きの再来が起こったりして。


そんで、キューブラー・ロスの提唱する死の受容五段階というのがあるけど、
あれは他人の死を受容するときにも起こるのだなと実感したり。
志村の死に非常に腹立たしく感じた日があって、
誰にぶつけようもないし、
しかも先週知ったような人のことでこんなに感情が乱されて、
私はおかしいんじゃないかと思ったり(前記事にも書いたな)。
お悔み申し上げますって悔やみ切れないよ!!
どういうことよ!なんなんだよ!
と怒り通して。
でも一通り腹立たしさを感じ切った時、
ふと軽くなる瞬間があって、
「ああ、もう私は大丈夫だな」
と思ったのだった。
たぶん、この時大丈夫だと思ったのは、
昨年何人もの人を見送った時に、既に経験したプロセスだったからじゃないだろうか。
本当に受容ができない場合は「否認」に移行し、つまるところ
「怒り」さえなくなる、というか、「否認することで否認対象が消える」
という恐ろしい状況になるわけですからね。
あんまり行くと「え?あの人は死んでないよ(どうしたの?ニッコリ)」となる。
そこまでのことに直面したことはないけれども。
誤解を招く書き方だが、「死に慣れるのは悪いことではない」。
頭が割れるほど悲しんだ経験を何度も通り越して、今、そう思う。


昨年友人が亡くなって私が非常につらい思いにとらわれていた時、母親に
「これから、こういうこといっぱいあるから」
と言っていた意味が、今はわかる気がする。
まあ、つらい状況にある人に掛ける言葉じゃないとは思うけど。
その辺はさすが我が母というべきか、
ときどきいるよね、ちょっと変わったこと言う人・・・/笑。。




「死者」として生きる

そんな折、南直哉禅師の弔い問答を読んだわけで。

死を人間は「別離」と「旅立ち」というモデルでしか考えられない

南 ・・・(略) 死者として「ある存在の仕方をしている人間だ」と意識するからだと思うんです。
石井 ある存在の仕方をしている人間…。
南 そうです。死者であって物じゃない。

私の中で起こっていた混乱の第一要因が、これを読んでわかったわけで。
つまり、フジファブリック志村正彦が情報として生き始めたと同時に、
事実として死んでいることで、
「生きてんの?!死んでんの?!死んでるけどこの私の状態は?っていうか生きてるとか死んでるって何・・・」
というドツボにはまってしまいましてな。
で、弔い問答を読んだことで腑に落ちたのは、「死者として生き始めた」ということです。


結局、生きようが死のうが死なないわけですよ、これはスピリチュアル系の話しではなくて。
外のものが生きようが死のうが、実は私が死なないうちは「他者はだれも死なない」のです。
ここで言う死は、消滅とほぼ同義。
恐ろしいことに気が付いてしまった気もするけど・・・。
これが、南禅師のいう「別離または旅立ちというモデル」の収束点ではないだろうか。
結局、実体は「ここ」になくとも、自らの中に蓄積される情報は消えないわけで
(大体記憶のシステムについてはまだ人間では分かってないことが多いのでそういう話は除く)
ましてや昨日知ったような公的な人間(芸能人とか、つまりここでは志村正彦)の場合は
情報はどんどん増えていくわけです。
自分の中ではどんどん生き生きとした、まさに生きている人となって行く。
しかも幸か不幸か、亡くなったばかりなら、その見た目に時代ギャップが感じられないために
同時代的な環境、共に生きている感覚から逃れるのは難しい。
死んだのだ、というよりも前に、「居ないのだ」ということの認知が大事なんだなと。
「情報としての死」はそのあとなのだ、と今は思う。
自分の中に「ある」のに「居ない」カテゴリに、自らの意思を以て移動させるというプロセスは、
痛みや、否応なしに自らの認識の変容を引き起こすことになるので、
否認や怒りが起こるのは当然ともいえるかもしれない。


自分を納得させるために長文になっているけれども、志村正彦の死によってまず、二つわかった。

  • 人は死ぬと、「死者」になる。
  • 人は死なない。