本当に目覚めたら、めざめよ!などとは言わない。

シッダールタ

シッダールタ

全面的にネタばれますのであしからず〜。


あらすじは、一人のバラモンの青年が修行者となるために出奔し、
悟りの一瞥の後に俗世の様々なものにまみれ、経験し、
ついには安らぎを得る、という話。



この本は、約90年前に書かれた「物語」だ。
けれど、これはヘッセが悟りを経験したという記録だと思った。
それを一瞥したら、それを隠せない、と私は思う。
一瞥した人には特有の香りのようなものがあって、
ヘッセにはそれがあると思った。
たぶん、そうした香りのようなものは
人が本来持っているものだからこそ、立ち現われたら消えないのではないかと思う。
成人が子供に戻ることがないのと同じだと思う。
また、子供が成人になるのと同じように、人の中にあるプロセスの一つで
何ら特別なことではなく、誰もがきっかけ次第で経験することなのだろうと思えた。
子供が大人より存在として劣っている、などということがないように、
それを一瞥したかどうかというのは、人としての価値に全く関わりがない。



シッダールタを読んでの感想は、書き直して3回目。
だんだん染み込んでくる。


一番のことは、「自分は高慢だった」と気がついたこと。
本の中に「若さゆえの高慢」に主人公が気付く時があるのだが
それと同じくして自分にも気付きが来た。
何かを持っているということが、存在を価値あるものにしてくれると思っていた。
それが、自分自身のエゴであり、苦しみの原因であり、間違いの根源だった。
いやな気分よ さようならの中にも、認知のゆがみに気付くまでの過程について書いてあり、それを読んでいたことも影響した。
誰かが何かよりも価値があることなどなく、
誰かが何かより低いこともない、
あらゆる真理は、その反対も同様に真実。
事象事象としてだけ見ることができず、
高慢でいることで自らを守ろうとしていることにも気づかなかった。
久々に恥じ入った。
けれど、それさえもエゴだ。


しかし、ヘッセはおそらく「目覚めた」人だったと思うが、
あの時代、自分が「目覚めた」こと気付く、
そして周囲にそれとはっきり伝えるのは、とても危険だったのではないだろうか。
だからこそ、物語という形をとり、
そして、その英断によって多くの人に届いた。
この本を読んで、車輪の下の最後で主人公がなぜ死んだのかが分かった気がする。
この死を以て、ヘッセは自分の中でずっと死にたいと望んでいたものが死んでゆくようにすることができたのではないかと思う。


何かに挫折するたびに、自分の中の死にたいと望み続けていたものが死んでゆくのを感じた。
痛みや傷は、経験しつくさなければまた、やってきて向き合うことになること。
忍耐というものは、「自分の中のエゴ」を黙らせながら「ただ待つ」ということ。
人は間違いを起こすように生まれついており、それ自体は価値とは関係なく、
たとえ「目覚めた」としても、間違えることはもちろんある。
どんな人も、その人が生きる上で起こることを避けること、
避けさせることは一切できない。
ただその人はその人を生きる、それだけだ。
そして、どんなものも美しい。
すべてのものは、見えているかいないかというだけ。
なんだか、いろんなぼんやりしていたものが見えたような気がした。
眼鏡みたいだ、この本。
はっきり見えたとき、変わるのは自分の在り方だけというところも。




ときどき読み返したい。
また、その時で思うことも変わるんだろう。