女の子扱いという癒し

何が効くのか分からないなぁ、という。
先月ちょっとしたことを、やらかしてみて、あれは残念賞だったわけですが。
まあ、それでそれなりに痛みも知らないうちに抱えていてですね。
というか、人に何かを伝えるときにははっきり伝えないと、分からないこともあるというか
分かっていることは分かっているんだが、そこが分かったということを結論として出したくない
というウジウジちゃんがいる場合、
そのウジウジちゃんに昇天していただくように
あえて相手を袈裟切りにする、という愛もあるなと。
何言ってんのっていえば、失恋したって話ですが。
それ自体はいいのだ。
私はそれで、自分の欲しいものは実はもう手にしていたことに気が付いたから。
そして、相手から与えられるのではなくて、相手がしているのは触媒のようなもので、
それによって加速したり、始まったりすることがあっても、
満たされるというのはいつも、自らを以て行われる、という大切なことが分かったのだ。
ただ、非常に曖昧に表現されて、それを自分で斜線を引くというか、
自分で決めるときに痛みが生じたということがあった。
何もかも、自分で決めなければいけない
自分で引き受けるのだ、という痛み。
逃げ場はないことを自覚した。




で、その痛手は、しばらくはその傷はないことにして暮らしていたのですが。
と言えるということは、私はもうかなり、その傷が癒えているということなんだけども。
ちょうどそのころに帰省していて、
たまたま、ポンと日が空いた時があり、
東京の大学にいたときの同級生に無性に会いたくなって連絡し、
ビールを飲んで、ビールを飲んで、相手の顔を見てだらだらした。
その同級生に会うのは多分、3年ぶりぐらいだったんじゃないだろうか。
前に会った時の私は、一種の崩壊を経験した2007年より前だったとおぼえているので。
もしかしたら、5年ぶりぐらいだったかもしれない。
とにかく、久しぶりだった。
私はかなり考え方や人に対する接し方も変わってしまったし、
以前の彼の言動も覚えていたので、
お互いに失望するかもしれないという思いもあった。
けども、何か妙に会いたいんだよなぁ、と思って会ったのだった。
会った結果、
彼もそれなりに考え方が変わっていて、
「あれっ、こんなにいいこと言う奴だったっけ」
「あれっ、こんな価値観になってるんだ」
ということが色々あった。
まあ、会っていない間に色々あった結果のようだ。
普段全く連絡を取り合わず、思い出して飲みに行くという気楽な友人だ。
今回は私の変化と、相手の変化が上手く調和していたのだなと思う。


帰ってから、
何か妙に温かい気持ちだなぁ、
なにか、助かった、癒された、助けられたという気持ちがあった。
会って数時間一緒にいた中で、前は私が気付かなかっただけなのかもしれないが、
何かと、彼が女の子扱いしてくれたなぁ、ということに気が付いた。
まあ、扉を押さえて置いてくれたりとか、そういった小さなことなのだが。
そういった小さなことが、
見ようとしていない、けれど存在する傷の痛みを包んだようだった。
「だって、女の子でしょ、女の子でいいんだよ」
という、容認のようなことが自分の中で起こったのだろう。
癒されたおかげで、傷があることを認めることができた。
ある意味、ヒーリングだよなぁと思ったわけで。
相手は意図して癒そうとしていないことだけれど、
逆にこうしたことで、生きていく面白さみたいなものを思い出した。
何気ない優しさとか、大事なんだなとよく分かった。
ただ、毎日大事に生きていくことに、光のようなものが混じっているのかもしれない。


上記のようなことを、頭の中だけでもにょもにょ考えていたり
いやいや、まあ、もうちょっと練ろうとかしていたら、
逆にイライラしてきて困ったわけですが。
何にイライラしているかと言うと、
プロセスが完結するまで認めない、もっと良いものが出るまで満足してやらない、
みたいな自分がいることと、その曖昧さを受け入れたい自分のジレンマみたいな。
今はそれだけで、今でいいというところを恐れているのかも。
それまでの自分が無駄になるとでも思っているのだろうか。


だからこういったことはさっさと出してしまった方がいいんだよなぁ。
というか、このブログを牛の反芻のように繰り返しあじわっては消化することで、
一人カウンセリングのように自分をいたわっているプロセスなのだと思う。
わけがわからなくてもいいのだ。
これはとにかく、私への手紙なのだから。