すてきな白目

一昨日、ゼミで研究発表。
いつも、三人いる先生が、その日は一人。
発表を学生がすると、問答無用という感じで、先生は一つは質問しなくてはならない雰囲気。
最近は、学生でありつつ、下の学生に何やらを伝えたりするので、何か両方の気持ちがなんとなく分かるというかなんですが。
「あんまり、興味ないし、特に問題もないじゃん」
というときに、無理に、でも無理やりに見えないように質問をするの、難しいよね。
 
で、「ま、いいんじゃん?」って感想になりそうな発表をしたのだが、
そうしたら、教室の一番前に座っていた先生が質問してくれたのだが、
私が返事をしている間に、物凄い眠気に襲われたらしく(この間20秒くらい)
黒目がだんだん上にあがって行って、白目を剥いて首が斜めに。
あっ、まずい、と思ったのだけど、話しながら、つい笑ってしまった。
何事もなかったふりをして、発表は終わったのだけども。
他の学生はみんな、その先生の後ろに座っていたので、私が笑った理由が分からない。
「え?なに、なに??」という状態のまま、済し崩し的に他の学生の発表へ移行。
 
学生の部屋に戻って来てから、書類を机にぶっつけて、そりゃあ笑った。
あの、何かしながら白目を剥いていく眠り方って、赤ちゃんじゃん!!とか言いつつ。
私の、こらえきれなかった笑い方に疑問を持ってた学生も、一緒になって笑った。

 
あーあ、笑ったよ。
よかった。
笑えたよ。
先生ありがとう。
 
誰かを亡くした後というのは、どうしても、罪悪感が付きまとう時期がある。 
これは、2007年の従兄を亡くした時の経験でもそうであったし、精神科医の北山修もそんなことを言っている。エリザベス・キューブラー・ロスの提示する死の受容の五段階は、自らの死を受け入れるプロセスだけど、すべての困難なものの受容の過程に通じると感じるし、そのなかでも、多くの痛みを通過することになると言っている*1
 
先生が白目をむいたのを見て、もう、ほぼ反射的に笑ってしまったのだが、
学生部屋に帰ってきて、改めてほかの学生と笑った時
「ああ、私は、笑ってはいけないと思っていたな」と気がついた。
もっと長い間、悲しみの中にいなければ、Kに対して申し訳ない
という気持ちがあったのだった。
私は薄情だ、と思いたくなかった。
 
昨日、知り合いに会って、その時にくだらない話をしていたら、
また可笑しくて、10分ぐらいで去るつもりが
大体一時間ぐらいいて、物凄く笑った。
共通の友人にいたずらして驚かそうと想像して
実際にはしないにしても、その想像だけで笑った。
このとき、「私は、笑おうとして笑っているな」ということに気がついた。
 
悲しみや痛みはある。
でも、もう、大丈夫だなと思う。
十分悲しんでも、思い切り笑っても、大丈夫。
罪悪感は毒だ。
人を苦しみに落とすことしかしない。
自分の中の何かを失うのを恐れて、罪悪感を抱えることでその時を遅らせようとしたりする。
でも、意味がないのだ。
罪悪感はもっとも意味がない。
なにより自分自身の受容と愛を求めている、その自分自身を突き放してしまう。
ということは、世界を苦しみにゆがめることになる。
苦しみにゆがめても、失いたくないという気持ちもあるのも、知っているけれど。
それは、私はもうやめよう、と。
 
こんなに早く受容が来て、本当は気が引ける。
まだ、悲しみや痛みはあるので、引きずっているともいえるが、ある点で、受容してしまったと感じている。
 
従兄の時もそうだったが、亡くなってから、友人Kが頭の中にいて、話しかけてくる。
生きているときと同じ口調。
恨み節や、死者のイメージ特有の重苦しいものはない。
これが何なのかはよく分からない。
「だいじょうぶだって!」という声がする。
亡くなったということは、楽しみや、喜びももうないけれど、痛みや苦しみや悲しみも、もうないのだ。
むしろ、私が「ちょっと〜、だいじょうぶなの?」と言われている。
 

*1:

死ぬ瞬間―死とその過程について (中公文庫)

死ぬ瞬間―死とその過程について (中公文庫)