巣立ち

26日の帰りに、ツバメの巣をのぞいた。
うっかりオートの状態でシャッターを切ってしまい、フラッシュをたいた。
すまん、ツバメさんよ。
 
お子さんたちがお尻を外に向けて巣を汚さないようにして、
親御さんたちは巣の外で休んでらっしゃる。
親御さんのうちの一羽は見にくいけど、こちらを覗いているような格好。
おお!なんという姿!と思い、嬉しくなった。
 
そして、昨日も覗いてみたら、もう、親御さんだけになっていた。
片方が巣に、もう片方が金属の枠に乗って休んでおられた。
 
気がつけば、すべての日々は 後ろ姿に。
 
 
最近「クジラの島の少女*1」という映画を観て、
心が動いたのだが
動きすぎて痛みがあり、記録をと思っているのにブログに書けなかった。
簡単に言うと祖父と孫娘の確執と受容の話。
私が、痛い、と感じているのは、
孫娘が女であるために受け入れられない祖父に対して、
孫娘である少女は、祖父がいずれ受け入れられるようになるまで、
また、受け入れられなかったとしても、祖父を一人の存在として変わらぬ愛情を注ぐところ。
私にはあんなに大きな愛はなかった、と思い、棘が刺さったような思いだ。
少女は自分の運命から逃げないし、祖父の愛情を疑わないし、祖父の弱さを憎んだりしていない、祖父の恐れを受け入れてさえいる。愛するものが、自分を愛することができないことを、受け入れてさえいる。
あるがままにあることを、受け入れている。
強さというのはこういうことなのだ、と思う。
何かを持っていることではなく、何も持っていないことなのかもしれない。
 
少女は「自分は特別である」という直感に疑いを持たず、たしかに「特別」である。
ここに、彼女を助ける何かがあるのかもしれない。
また、彼女を因習の外から見た眼で愛を注ぐ祖母の力も大きいだろう。
 
私は特別でありたかったが、徹底的に特別ではないことを思い知らされた人間だ。
しかし、私がそうありたかった特別とは、一体何なんだ?
映画の中で、少女の父が言う。
「おじいちゃんが求めているのは、幻のようなもの、実際には存在しない人なんだ。預言者のような」
そういう父は、因習の中で求められた特別な力がなく、因習の重圧に耐えきれず逃げ出した先の大衆の中で、特別な力を発揮(アーティストとして活躍)した。
そして、少女自身も預言者ではないとは言うが、クジラと心を通わす力を持っている。
「因習に求められた特別」でありながら、その特別なものではありえないはずの女であることは、常識の転換、新しい時代の到来を示しているのだろう。
 
はたして、私が求めていたのは、誰なのか、と思う。
私は、私が私であることをずっと恐れ、他の何かになろうとしていた。
他の何かになることに意味はないと知りながら、変化や成長を求めるのは何故なのか。
そういったことが矛盾であると思っていた。
うつろいの中にあろうとも、変わらない何かがあることを知ろうとしていたのだろうか。
私であることを恐れていたことに、気付いた。
それは、私が私であるということに、大きな力があるということなのでは?
時として、人が成功することを恐れるように、
私が私である力を発揮することを、私は恐れいていた。
 
そして、私が私自身であるがままで受け入れられたかったのは、他の誰でもなく、
私自身によってだ、と気がついた。
 
ただ私であるということは、怖ろしいことだったのだ。
ただ私であることを受け入れるということは、恐ろしいことだったのだ。
それに今、気がついた。
そして、幸せは、ただ私であることなくして、最早あり得ない。
この凡庸な私自身であること。
これは、私の求める「特別」を超えたものでは?
 
この話はもしかしたら、自らであることを受け入れることを軸にしたオムニバス的な映画かもしれない。

*1:

クジラの島の少女 [DVD]

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