過去をどう扱うか

過去をどう扱うか、
という話が最近ちらほら耳に入るようになった。
私の関心がそちらを向いているだけだろうけど。
 
過去なんて幻なのだから、消してしまえ
という話があるが
そういうのはなんか
悟りとかそういう話からよく聞くが。
まあ、究極的な何か
からみれば、幻しかない
みたいな言い方もあるわけで
それはそれで正しいのかもしれない。
 
幻なんだから、こだわるなんてバカみたい
というような話を聞いたり読んだりして
私は立腹気味になったのだが、
それは、
私が過去を大事なものだと思っている
ということだよなぁ、と思う。
自分の大事なものがゴミと言われて怒っている
というような状態だろうか。
 
私にはまだ捨てられるようなものではなくて、
そこから学びとりたいものもあるし、
受け取っておきたいものもあるし
まあ、大事なんです、まだ私には。
 
本当に完全に過去のしがらみから切り離された人
というのは、私は会ったことも見たこともないのだが
(記憶がなくても昨日使った続きの体を使っているし)
まあ、振り回されるくらいなら多少、忘れてしまえよとも思うけど、
過去を過去にするには、過去を過去のものとして受け入れる
という過程が必要なのではないかなぁ。
受け入れられない過去というのは、
その当人にとってはまだ現在なわけで、
現在だから苦しむわけですわ。
 
でも、過去を覚えている設定を持って生きることになっているのだから
それをもって生きるようになっているんだから
それは苦しむのではなくて、楽しむ方に使いたいよな。
昨日聞いた曲が気持ち良かったのを覚えているから
今日もまた聞いて、ああ好きだなぁ、と思ったり
良いじゃないですか、と思うのです。
そりゃ、
細かく言えば、昨日と今日聞いた曲は
私の体の物性も
曲を記録している媒体のコンディションも
そういったものを内包している地球の状態も
気温も、その組成
全部違うわけで、同じ曲かと言えば違うのだろうが。
いいじゃないか、それだって、と思うのよ。
だって、みんな適当に生きているじゃない。
それでいいじゃない。
 
それぞれが、美しいと思うものをみて、生きていったらいいじゃない。
みんな同じじゃなくても、いいじゃない。
同じじゃないからいいじゃない。
 
 
私が、以前よりずっと心の平和を手にして生きていられるのは、
ひとえに今まであった過去のおかげで、
色々あったことの色々を見る覚悟をしたことに由来すると思っている。
この色々も、覚悟をしたのも全部過去のことだ。
だから、今の私には、過去は大事なんだなぁ。
まあ、過去が大事じゃない人が過去を抹消して生きていこう
という意思を、私は全然賛成できないが、
その意思は大事にしたいと、今は思います。
何かに引っかかることがなかったら
深く考えることもないしなぁ。
 
最近気がついたが
無意識だったり意識してだったりですが、
心を平和にするのをあえて選択しない、という人もいて
それはそれで、その人の選択を尊重したほうがいいのか
とか思うこともある。
私はひたすら平和を求めてきた人間なので
平和を求めない人のことは本当に分からないのだが
それが、私の平和には干渉しないところでそうありたいというのであれば
それをどうこうする、言う、というのはどうなのかとか。
ていうか、ま、平和の定義が人によって違うのだろうけど。
自分に対して近視眼的になるとろから、ポーーンと離れてしまえば
相手も自分もないので
悩むのも悩まないのも同じだろ
みたいな話がありますが。
そういう、遠い視線も、近い視線も、いつも両方持っていられたら
面白いのになぁ。
あと中くらいの視線も欲しい。
  
あ、過去を大事にするのと過去に縛られるのは違う意味で。
本当に大事に思うことができているとき、
きっとその束縛からは解放されると思うのよ。