認知するだけで、放置する

この前、人と話しているときに
相手も、私も、腕を組んでいる
という状態に気がついた。
行動学みたいなやつとか心理学とかスピリチュアルとか
そういうやつで、腕(or足)を組むというのは
防衛、怒り、拒否、緊張
などを示すようです。
なので
相手が腕や脚を組んでいるとき、
もしくは、無意識に自分が腕や足を組んでいるとき
は、それを解除する方向に持っていくのだが
(だいたい、こっちの姿勢がオープンになると相手もほぐれてくる)
そのままにしておいた。
そのままにしておいたら、
そのままでした/笑。
ただ、指摘されるそのままの行動をしている私、
を認識するだけで、終わった。
まあ、防衛だよなぁ、としみじみ思ったわけですが。
  
そのとき、何で腕を組むのをやめなかったか
というと、
話しながらどんどんみぞおちの辺りが寒くなってきたから。
寒いというか、すうすうする感じで。
それを感じつつ、「おお、チャクラってあるんじゃね?」などと思ったり。
この寒い感じはちょっと良くないよなぁ、と思い
手を外さなかったのでした。
 
そういや、この前カウンセラーの先生と話したとき
上記のこと(チャクラの話)をしたところ
「ああいうのは、経験から得られるものだからねー、あるかもねー」
と言っていた(ほぼ雑談状態)。
あと、最近やってる本、「ずっとやりたかったことを、やりなさい。」の話をし
「あれ、おもしろいですよー」
と言ったら、知って(持って)いた・・・・・。
ちなみに、私は11週目に差し掛かりましたが、9週目の課題に引っかかりました。
そんで、過去の自分を恐れている自分にも出会った。
ええい、このやり方しかないのか!とも思うが、
今、この方法しか取れないなら、これがベストであって
この方法をもってでも進もうとする自分を愛するのが
自分の一番の仕事だ、と思いまする。
次を思うなら、まず今、だわな。
 
ついでに圧迫リスナーの話のついでですが
(フォーカシングの時の誘導、寄り添いの人をリスナーという)
「実践系のフォーカシングを進める人はそうなりやすいんだよねー」
とのこと。
実践ねー。なにをもって実践なのか聞くの忘れちゃった。
もやもやを突き詰めていくことが、何かを明らかにして行く、というのは私の好みですが
フォーカシングの場合、リスナーがリスナーであり続けることに主体性をもっていなければ、
(黒子が、黒子であることに徹するというか)
フォーカサー(フォーカシングをする本人)にとっては圧迫感を感じざるを得ないよなぁ
と思うのでした。
聞きたい!という欲求が強い時点で
フォーカシングの主役はフォーカサーではなくなるし、
インタラクティブフォーカシングの場合はいいのかもしれないが、
インタラクティブフォーカシングの場合はお互いが認知の上であるからあ出来るのであって
(まあ、自然にそういった会話に移行する場合もあるかもしれないけど)
そうではない場合には、フォーカシングではなくなっちゃってるだろうなぁ。
これって、インタビューとかでも同じことが起こってるかもな。
 
もしかして、実践系というのは、
そのフォーカシングの経路で起こる色々な感情などにはあまり重視しないで
結果良ければすべてよし、みたいな感じなのかな?
実践系ではない人(私がお世話になっている人の系統?)から見ると、
「実践系の人は人間関係大丈夫なのかな?っていう感じする」
らしいです。
それって、私のことデスカ・・・・/汗。
 
 
この前の、お化け屋敷の話だが、
あれ、遊園地(ディズニーランド)とかでも同じだな、と思った。
で、前は、悟りきったら面白くない
と思っていたが、それ違うということに、今はなった。
悟りきるというか、常に悟りと共にあるというか、
そういうのって、全部の意味のつながりの糸がみえているというか
そうでありながら、全部見ていないというか、うまく言えん!!/笑。
で、
本当に目覚めた人(何と言うのがいいの?覚者?)は
全部面白いのじゃないかと。
そのままであるのではと。
小さなことに驚く自分も面白いし、
全てのアトラクションもそのまま面白がることができるのでは、と。
そして、それがすべて何の手によるものか分かっている状態でもある。
それは、
「ケッ、人が動かしてんじゃろ」
というような冷めた視線とは違うものだ。
凄く近いけど、なんつうか、物凄くおいしいものの成分とそれによる全ての作用を知っているのと、
全てを知っているうえで、本当に食べたことがあるかの違いでは、と思う。
 
 
最近、物凄く腹が立って悲しいと思ったことがあったのだが、
色々思い返すと、
そういった感情を引き起こすのは全て
「お前がお前であることが受け入れられない」
とか、そういった関連の内容であることが分かった。
それは、改善とか向上とはまた違う、
表面としては一見表層の変容を促すことのようでありながら
存在の認知を拒否するということですよ。
ありのままであるということと、変容を受け入れるのは反することではないと思っているし
そう思って、自分の変わるところはいくらでも変えようとしているが
(第一、変わるところは本質的には自分ではない、とも思うし)
変わらないところを変えろというのは、違うだろ、と。
まあ、「箱としての私」と「箱を超えた私」で、変わるところは違うけど。
唯物論と唯心論は、根源では相反することはないって話ですよ。
まあ、この話を続けると自己防衛で頭に血が上ってしまうわぁ/笑。
どうどう、私/笑。
 
それにしても、
これって全部、子供の時からずーっと繋がった一本の線の上にあることだなぁ
などと思ったり致しましたことよ。
つまり、再来は、卒業のサインです。
舞い散る桜と共に、一つの季節が過ぎ去るしるしです。
さようなら、さようなら、
腕を拡げて両手を挙げて、手を振ろう。
さよなら、さよならー。
ばいばーい!
もどってこなくても、いいぞーー!!