賜生

「しせい」と読むそうです(致知3月号より)。
賜生、この賜った生をどう生きるか、という特集でした。
 
さんざんお世話になった加藤諦三(一時期本読みまくった)が対談していたので、
そこを読んだ。

間もなく私の体は金色の温かい光に包まれ、完全なる愛と開放感を体全体で感じ取る至福のひと時を体験しました。

と、対談相手が言っていた。
その人は、鈴木秀子シスター(文学博士でもあるらしい)。
臨死体験のようなものらしいが、その後、人生観に揺らがないものができた、と語っていた。
ここ(↓)に、その時の体験らしいことが書いてあった。
臨死体験者の場合
 
 
あと、去年、なぜか奥田民生のCDと間違えて借りたRADWIMPSですが
(ジャケットの男性が奥田民生になぜか見えたのでした)
歌詞書いてる人!(野田洋次郎)そうでしょう、と思った。
明らかにそれだとは言えるようなものはないのですが/笑。
希望も含めてね。
(↓)これとか、割とよく出ているような。
バグッバイ (RADWIMPS) 歌詞情報 - goo音楽
論文書いている間、ずっとアルバム3枚をぐるぐる聞いていたら、
(いつものMr.Childrenはコンサート落選の傷心で暫し聞けなかった/笑)
「あれっ?」という感じで気がついた。
うーん、まあ、こっちの準備がいつも問われているのだな。

 
何の話かっつぅと、あれですよ、神を見た、みたいな。
 
最近になって、何かよく気づくようになった。
それに触れると、「なにかがある」という思いがどうしても離れなくなるので、
言動の根底が変化せざるを得ない感じだ。
 
宗教に生きている人の強みというのは、
既にその人生の中に「神なるものがある」という概念があるからだろう。
それが全然ないと、「神なるもの」に出会った時、相当苦しむことになる気がする。
「それ」に沿って生きようとするときに、その方法が分からないからだ。
でも、方法はない、それに気づくまでが大変だ。
 
全ての考えは自分のそれまでの(ということすら、というのもあるが)思いぐせの影響を受けていて、
これは、望まれたものだ、という何か確信のようなものがこの生にあるのだが、
本当にそうなのか、本当にそうなのか、ということは
何度も思う。
一日の中で、この二つの思いが現れては消える。
本当に、本当にこれが賜生だ、と他者には言える。
けれど、自分に立ち返ったときに、戸惑いが生まれる。
これはただの癖なのだが、30年近く使って培ってきた癖だ。
けれど、いずれ癖であるからには、落ちるのだろうと思おう。
 
ここにしかない、他にはない生命を生きている。
全ての体験、余すことのなく統べて二つとないものだ。
けれど、誰かがこれを生きたいのなら、変わっていい、とも思う。
代わってみたところで、その実、それは私であり、その変わったその人で
なにも変わらない、生命だ。
 
 
っと、ここまで書いて、鈴木秀子を探していたら凄いページ発見。
覚醒・至高体験事例集
 
ついつい、これが本当のものだったのかどうか確かめたくなって、同じような人を昨年あたり探していたが、
実際にお会いして、私の中にガツンと立ち現れたフェルトセンスは
「もう、同じ体験をした人を探すことが人生の本分ではない」
ということなんだよなぁ。
ついつい不安に同調してこんなことしてしまいますが。
あるものはあるので、それが幻想だろうとどうだろうとあるのだから、
それを現世に還元してゆくことが、生きることそれ自体の意味、人生のアートじゃないだろうか
って、何度も自分に言い聞かせるという感じです。
「すべてに見る、示す、そのものとして立つ」です。