自己

このブログ、
隠すこともないが、宣伝する必要も全くない、と思ったり。
完全に思考垂れ流しの記録ですからの。
売り物とかにはならない体裁です。
 
高校の時の英語の授業の作文で、
「なりたい職業や、こうありたい将来の姿について書きなさい」
というものがあった。
その時は絵描きになるな攻撃に屈した直後のヤサグレ真っ最中で
なりたいものなんてないし、ありたい姿なんてないんですけど
ていうか、人生やめたい
とか考えている時期でした。
で、書くことがなかったのだが、「考え続けて行きたい」というのはあって
何も考えてないような人間にはなりたくないわ、
人は考える葦って言うじゃないですか
みたいなことを作文で書いたら
「なにがいいたいのか、英語以前に、さっぱりわからない」
とそのアメリカ人教師に言われたのでした。
色々考え過ぎなんだよ、と昔から言われたものだ。
まあ、考えることを使わない人は考え過ぎる人のために、
考え過ぎる人は、考えることを使わない人に、何かためになっているんだろう。
で、今の私が過去の私に言うとしたら
「考えるのと悩むのは違う、悩むのは消耗するばかりだ」
「頭を使って考えるだけが、答えを出したり自分を救う方法じゃない」
ということかな。
つーか、悶々としているよりも、もっと遊んでください!
堂々と遊んでください。
 
 
昨日の教授の話を追加で考えたりしていて
どうも、
私には相手の物語を受け入れる度量が足りんな、と。
相手にはそういう行動をとらざるを得ない理由が、すべてにおいて存在するのだわ。
私自身もそうであるし、誰しもそう。
それを、受け入れるというと語弊がある気もするが、
受け取る、存在することを許すというか、それがあることを分かっていたい。
それを飲み込むとか、そういうのはまた別で。
なんかいい言葉はないものかね。
  
 
今日のモーニングページは、
書いていたらまた眠くなって、途中で休んだ後、ちょっと英語で書いてみたら、
書いているうちに知らないうちに筆記体になっており、何か気持ちよくかけた(内容はともかく)。
それで、ふと気がついて、続きの日本語を縦書きにしてみた。
そうしたら、ペンが走る走る!
日本語は縦書きで書くようにできているのだなぁ、と思った。
草書体をちゃんと書けるわけじゃあないけれど、
この、引っかかりのなさは何なのだ!と。
横書きが推奨されている今の日本というのは、明治以後から始まっているんだろうが、
こうして横書きにしていることって、日本人の日本人としての認識に、障害になっているかもしれない。
なにかの、と言われたら分からないけど。
たとえば、英語を縦書きにすると、すごい読み辛いじゃないですか。
書きにくさはそれを上回るわけで。
縦書きのなかに、何か、日本人としてのアイデンティティが存在する気がしたんだよな。
小説なんかは、相変わらず縦書きで、それが続いているのにはやっぱり意味があるんじゃなかろうか。
 
おお、Identifyって、サインじゃなかろうか。
 
モーニングページが、本の中で3ページを30分時間をさいて・・・、と書いてあるのだが
私は今までどうしても50分弱かかってしまい、これは何だろう、字を詰めすぎ?考え過ぎか?
とか思っていたのだが、
母国語が英語の人が筆記体で書けば30分で終わるところ、
日本語で横書きじゃ、なかなか進まないわけですよ。
なーんだ、縦書きで書けばいいんじゃん、という。
モーニングページは読めない字で構わないという体裁なので、縦書きで行こう。