信頼感、孤独、恐怖

昨日の夜、日記(紙)を書いていたら(どれだけ書けば気が済むんだ/笑)
「私、何一つ信頼していないんでは・・・」
ということに気がついて、怖ろしくなった。
なんというか、さーっと寒くなるというか。
 
結局、所謂スピリチュアルということを私はいくつかしているが(これでもヒーラーだし)
こういったことが全部、嘘かもしれないよなぁ、ということは、実は思っている。
実は、って、前からそう言っているか。
とはいいつつ、手はびりびりきますし頭もぐいぐい押されますが。
最近は、鳥のオーラみたいなもんとか時々見えて、あれは何だねと思いますが。
まあ、効けば何でもいいんだよ、って気持ちですが。
だって、個人で検査薬持ってなかったら、病院で出される薬や薬局で買う薬が
本当にその薬効のある薬かどうかだってわからないわけじゃないですか。
ヒーラーによる治療も、病院の治療も実はプラシーボで、
手術だってもしかしたら表層の皮膚を寝てる間に切れ目入れて終わってるかもしれないじゃないですか。
世界中から、あるパターンを持った人間を実験的に集められた都市に住んでいるとして
まるで自由意志であるかのようにマインドコントロールされているとして
それが本当かどうかなんて、完全にコントロールされていたら分からんわけですよ。
これ自体もうそうかどうかなんて言うことも分からないのですよ。
自分が本当に自然発生的に生まれて生きている有機的生命体かどうか、
そんなこと確認できないじゃないですか。
皮膚の表層に高密度センサーと皮膚にそっくりな構造のものがあって
それがまるでぶつけたり切ったりしたら痛みが出て、血が出たりするみたいに見えているだけとか。
ていうか、有機的なものが本当に自然なのかどうかも、なんとなくそう思っているだけで。
自分が本当にそう思っているのか、思わされているのかなんて境界がないですよ。
なんていうか、どちらかというとすべての自由意志は、思わされていることに無自覚すぎですよ。
何でスピリチュアルが存在するかとか、そいういうことも意識がそう思っているからで、
一体意識が何なのか分かって意識を意識的に使っているのは誰なんだっていう。
第一、今理由が分からなかったら全部スピリチュアルなのか?
天使を見たって言っている人より、つちのこ見たっていう人の方が少ないんですよ。
それ以上に、量子を肉眼で見た人なんて、いるのかよ!
それ、日本人の女の子の名前じゃないの。
分からないことだらけですよ。
 
なんつうか、
私は科学も同じようなものだと思っていて、
私がやっているような分野も、パラダイムシフトを何度も経験していて、
本当だと思っていたことが妄想だということは度々経験しているという。
まあ、どの分野もそれは経験しているわけですけれども。
今、本当に現実に見合う科学だと思っているものも、誰かに無意識に無理やり押し付けられたゲームの設定じゃないのかとか思うわけですよ。
でもまあ、その設定がどうのこうの言ったところで、それしか道具がないからそれを使うんですけど。
 
などということを考えて。
まあ、一歩間違えば負の思考のループなわけですが。
何でこんなにいろんなことを全く信じていないのか、不思議になった。
まあ、みんなよく分からない世界で分からないなりに生きているわけで、
言ってみれば、みんなそろって誰かの設定したゲームに「つきあってやっている」のですが。
なんつうか、私の中ではこの「つきあってやっている」感が強いというか、
割合意識的なところろがあるなと思いまして。
なんじゃこりゃ、何一つ本当だなんて私思っていないんだ、とびっくりしたのでした。
ビックリですよ。
自分の体験さえ、本当かどうかなんてわからないし。
肉体だって、さっきあったっていう記憶があるから、連続していると思っているだけで。
すり替えられたら分からないわけですよ、実は。
こんなに何もかも信頼していなくて、いいのだろうか。
本当は信頼していられたら、どんなに楽だろうと思う。
信頼したいんだよ。
 
 
朝、モーニングページをしていて、この信頼について書いていたら、
どうやら幼少の孤独感が関連している模様。
私は、共働き両親の一人っ子なのだが、
そのうち親は帰ってこなくなるのでは、という恐怖感がずっとあった。
「あんたはいずれ一人きりになるのだ」という洗脳をされて生きてきたというのもあるけれど。
あと、予定より二時間ぐらい遅れて帰ってきて、親が
「帰ってこないと思った?」
というあの嬉しそうな顔!
子供の時間って、大人の5倍ぐらい長く感じますからね。
本当に腹立たしいですね。私が孤独感にさいなまれていることに喜びがあったのだろうな。
自分が必要とされているのだ、ということをそこで感じたかったのだろう。
まあ、そういう喜びが存在することを否定はできませんがね。
「本当に帰ってこなかったら、おまえ、どうする?」とか嬉しそうに聞いてはいけないですね。
そんなことする前に、子供に謝ってくれよ、それだけでも癒されるんだからと思いますが。
まあ、両親の子供時代の孤独感の遺伝がそこで行われたわけですが。
とはいえ、私がもっと自己を強化する、
もしくは自分を大事にすることに重きを置く教育を自分自身にしていれば(その仕事は親の仕事なのかもしれないが)
そんなに親を畏れる必要もなくて、そこで「ふざけんな!遅れやがって」とか言って喧嘩して、
はい、終了(修了)、だったのだろうが。
 
で、まあ、どうもこの、「何もかも信頼はいずれ、裏切られ、人はいずれ去る」という考え方は
小学生時代のこの時期に徹底的に植え付けられたのだなと。
親が帰ってこなかったら、まず、ピアノはすぐ売れるなとか考えてたわけです。
 
この前の、渾名がどうだとか言う話も、16年も引きずってしまった理由としては、
自分が本当にいるのかいないのか、みたいなところがどうもはっきりしないまま小学生時代を過ごしてしまい、
(本当に自分自身であることが、周り(特に両親)にとって意味があるのかとか)
そこで、自分以外の何者でもない特定の渾名がついたことで、
自己が自己として特定されて、それにしがみついたんだろうなぁ。
だから、私自身が私であるという認識のためにそれをかなり利用していたので、
中高時代にそれをあえて他者に呼ばせたりしたのだろう。
で、自己が自己でしかないというのがどうにかやっと確立してきて、
その認識方法がなくても大丈夫になったから、やっと違和感を感じた、というか
違和感を自己に表出することが可能になった、みたいな。
回りくどい。
つまりは、私のせいでした、すいません。
というところがあるわけです。
まあ、同罪か、誰にってわけじゃないが。
あえて言うなら、平和を求める真理に?
 
なんだかよく分からない話になってしまった。
まあ、こうして私は割と自分のことを見るようにしているという話でした。
 
ただ、もっと自分の生きている世界のすべてを信頼したい、という話でした。
それにしても、無駄に色々着込み過ぎているうえにこんがらがってるよな、精神的に。
「普通の人」はどのくらい、無駄なものを持っているんだろう、と思いました。
普通って何?ってことはもちろんあるけど。