繋がりが教えてくれた

昨日、数年ぶりに会った友人と話をしてきた。
うーん、どれぐらいぶりなのだろうか、5年振りくらいか?
いや、3年?
もはやお互いで、何年振りかもわからない状態だった。
2007年の、私のびっくり転換期の辺りで一回会ったような気もするが・・・。


これがまた、お互いでかなり考え方が食い違っている
というのが顕著に感じることになった会食でして/笑。
いやー、お互い無駄な争いはしたくない、というところがよかったのか
自分の変化をまざまざと感じることになったし、
友人も考え方が随分変わったんじゃないかなぁ、と思った。
やー、あれだ。
友人じゃなかったら、耳を傾けていないかもしれない、というような思想だった。
「人は一人の一生の中で、何度も生まれ変わる」
といったことを思ったりした。
私は何か死んだな、今年は。
まあそれは、もういいよ、さようなら、という私だったけれど。


しかし、自分の正しさを主張したい、というところには、
きっと自分自身の不安感が立ち上がっているときなのだろうな。
そして、そういうときって、不思議と相手も同じように対応したりするもので。
正しいことって、本当は主張するためではなくて、
自分が生きるときの杖にするようなものなのかも。
その杖は暫く使ったら、使い心地が悪くなって新しいものに換えたり、
他人のを借りたら自分には、むしろ邪魔にしかならないようなものだったり、
そういう一時的なもので且つ、それぞれで形の違うものなんじゃないだろうか。
自分を支えてくれているものだから、時々思い違えて自分を守ってくれるかも、
と思って振り上げてしまったりしたら、相手を傷つけたりとか。
自分にとって全くいらないものだからといって
相手の杖を折ってしまったら、
その人は一時的ではあったとしても歩けなくなることもあるわけで。


そりゃ、自分が正しきゃ気分がいいが、
相手だって違う正しさがある、ということは、簡単に忘れるよなぁ。


話しながら、腕を組んでいて、
ああ、私は何かを守りたいのだな、と気づいて、
こういうことは、気づいた者から変わらなくては、
そしてそうありたい、と思った。
開いている、ということは、自由である、ということだ。
心も。
そして心が自由なら、人は自由でいられる、と思う。


頑なに何かを閉じて相手を試すようなことをしても、結局試されているのは自分で、
痛みを感じるのも自分で、一人芝居ですよ。
可能な限り、開いていたい。
開いていられない自分が居たときは、せめてその自分に対しては、開いていよう。


昨日会った友人が全くの他人だったら、きっと、私は切り捨てて、何に気づくこともなかった。
過去をも大事にしたいという自分に繋がったからこそ、友人との繋がりも、友人も、大事にしたいと思えるようになった。
いろんな人がいていい世界で生きて生きたい。
不安があるなら、その不安があるままでも生きていける場所にいたい。
すべてに開いていられる自分を選択したいと思える自分で、いつもいたい。
すべての繋がりに、感謝したい。