ゆるすしか、選択はない

昨日、行きつけのカレー屋に行った。
そこのバイト兄ちゃんが、先日物凄い男尊女卑の話をしていて失礼千万、ということがありました。他の常連さんと話していたのだが、時々こちらを見て、明らかに、私に聞かせているようす。私は静かに物凄く怒(いか)りまして(フェミニスティックな思想教育がされているので尚更)、その後何度店で会っても、あいさつはしても絶対に目を合わせない、視界に入れない、ということをしていました。
その兄ちゃんが何を言っていたかと言うと、「女は社会に出るな」「男の三歩後ろを下がって歩け」「力がないことを自覚し、男を立てろ」とかに端を発して延々、私が食べ終わって帰るまでその話。
怒るかどうか、見ていたのだろうか。
その場で絶対、感情あらわにするものかと思い、その時は流していた。
私はあとからじわじわ根深く怒るタイプだし、本気になってやればかなりの激情も抑圧できる。ははは、昔取った杵柄ですな。
何が役に立つか分かりません。
でもその後、最低限以上は徹底無視という行動表現に出ていたわけですが。
 
昨晩もそのカレー屋に行って(うまいんだもん/笑)、その兄ちゃんがいまして。
初めは無視していたのだが(他のお姉さん兄ちゃんたちとかとは雑談もする)、到着したカレーを食べながら、色々思った。
 
こうして、私は何がしたいんだろう、と。
人は変わるものじゃないか。
この兄ちゃんだって、変わっていくのだ。
こういう思想を得るような人生だったから、以前、あのような発言になったのだな。
私は、私がこの兄ちゃんの理想の女性になれと言われていると感じていたのか?
また、すべての人に愛される、赦されるような人にならなくては、と思ったのか?
私ではない何かになれ、と言われた過去を思い出して、怒りを感じたのだな。
その、言われた過去も幻想だし、本当に言われたとしても、言った人も妄想気味だ。
人は人を変えられない。
人はその人でしかない。
 
今、赦さないとして、私はどうするのだろう。
結局、私は私を許すことを選択するだろう。
私は、最後には許すだろう。
怒りを抱えた自分の過去も、私を怒らせた彼の発言も、すべて過去になった。
いま、ではない。
 
結局、私は、最後には許すことを選択するしかないのだ、と気がついた。
いつ許すのか、と言うだけの違いだ。
許さないことで、得られるものはもうない。
私は、今、赦す。
ゆるすしか、ないんだ。
なーんだ・・・。
 
なにか、ぽっかりとした空間が、自分の中にできた気がした。
なーんだ、ゆるすしか、ないんだ、と、わかった。
 
 
関係ないが、今週末からいく学会が東京であるので実家に泊まるのです。
のですが、実家から会場まで二時間半もあり、一週間毎日通うのです。
ホテル泊まるかー、一日ぐらい!と思ったらザ・マンハッタンで激安プランが!!
しかし、二名からだよ・・・。
でも泊っても、寝てるんだろうな/笑。
電車でも寝るから、いいか・・・。