喫茶店で

最近、もう「覚りはある」派。
 
昨日、行きつけの喫茶店でマスターと常連さんが
「さとりなんて本当にあるんですかねぇ」
というので
「ありますよ!」
と言って少し話したら
やんわり
「てめえみてえな小娘にさとりが来るわけねえ」
みたいに言われてしまった。
ううむ。
アプローチに問題ありだったか。
 
あと、塩沼亮潤という大阿闍梨に会った人の話になり
大阿闍梨、普通のおっさんだったらしいよ」
という。
これは、本当にそうだったんじゃないかしらと思った。
完全に覚者は「本当に普通」なかんじでは、と。
 
最近気になるのは
瞑想的宇宙とか真理、神みたいなものを体験した人の幾らかは
それ以前に比べても、思い悩み始める
という傾向が出ることだ。
 
何で?
といえば
その体験が強烈な多幸感と共に来るが
一瞬の出来事で、
繰り返し体験するのが難しく
他の体験と同じく、
感覚、感情は去りやすく
「体験したという記憶」だけ残りやすいからだと思う。
 
仏教なんかでは体系が出来ているようで
完全な悟りと、覚りを垣間見ただけ
の間に何段階もの状態を示しているようだ。
例→もっと あの世に聞いた、この世の仕組み
 
ちなみに、私はまだ見て、信じ始めただけ。
何かを完全に信じるのも疑うのも、怖いと感じ
これが私のブロックになっているようで。
 
 
私のことは置いといて、
最終的に完全な覚者になると
ただ、そのまま
なんじゃないか。
だからフツーに見えて当然ではないか
と思う。
 
ただ見ただけ
だと、
うっかりドラッグ中毒
みたいになりかねない気がする。
だからこそ、
さとりを目指す仏教はあれだけ細かく解説しているのではないかしら。
まあ禁断症状はないとはいえ。
 
 
一度アレを垣間見ると
見る前には戻れない。
絶対的な平和と調和が存在し、それが「いまここ」にある
問題も差違も初めから無くて、みんな初めからひとつだ
という体験はそれほど強烈だ。
 
思い悩むのは、また、
こうした完全な状態が存在しているのに
何故、現実にはそれを存在していないようにしか出来ないのか
全てに平和を顕したり出来ていないか
ということじゃないだろうか。
 
 
ついでに書くと
自分の経験では
悩んでいるときは動いてないとき。
頭で解決出来るとエゴが肥大しているサインかな、と。
諦めて、手を放す。
すると大体上手く行く。
 
 
最近吉本隆明の言葉を聞いたりして思うのは
人は誰しもどうしようもなく弱さを抱えていて、それと生きるしかない
ということ。
誰しも。
あらゆる人に弱さがあるなら
これは一人で生きられないようにするための装置
ではないか?
と思う。
 
 
 
初め書こうとしたことからずれてしまった。
今日はDVDレンタル100円の日だ!
何観ようかな。
大学は・・・休みたいなあ(笑)。
 
何か色々書いたけど
最近気になるのは
私は口ばっかでは、という点。
この人、口ばっかりだなあというのを見たとき
当人は、そんな自覚全くなくて、
自分に照らし合わせて空恐ろしくなった。
ひー。